スポンサーサイト

  • 2020.12.20 Sunday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -

    日記

    • 2019.02.28 Thursday
    • 18:12

     

    昔、初めてYogaクラスに参加し始めた時、先生が「ジャッジをしないように」と

     

    言っていたのが不思議だった。

     

    だって、先生は生徒を見て、アーサナをジャッジしてるのに?

     

    その頃は、はっきり意味がつかめなかった。

     

    ジャッジ・・・・物事を区別する、優劣をつける、仕分けするということだけど、

     

    先生は「ジャッジしてはいけない」というのに、Yogaのアーサナには理想的な形が

     

    あるよね?・・・と、思い込んでいた。

     

     

    それから大分経ち、今はその意味がやっとわかった。

     

    アーサナって日本語でポーズとかって訳されるんだけど、実はポーズではない。

     

    その形に向かっていく、ヴィンヤサという流れ・・・はじめの足、骨盤、身体の

     

    各部位の置き方からアーサナは始まる。

     

    そこから形に入っても、ピタッと止まるのではなく、呼吸と共に動き続けているのだ。

     

    それは自分の中に流れるエネルギーを感じていくこと。

     

    エネルギーとは決して一箇所にとどまるものではない。意識が向かう方向に進化するのだ。

     

    手綱を持って、散らばるエネルギーをまとめ、自分の中のエゴを手放して、良い方向に

     

    向かおうとする意識。

     

    決して「枠」や「型」にはめることではない。

     

     

     

    アーサナがエネルギーを調和させたり、進化させることだとすると、アーサナが

     

    静止する「形」ではないことがわかってくる。

     

    止まっているように見えても、エネルギーは各方向へ流れ続けている。

     

    とすると、各人の持つエネルギーの向かう方向を整えられるように、助けるのが

     

    Yogaティーチャーの務めなのだ。

     

    アーサナの完成形に向け、「導く」といったものではなく、黒子のように、その人の

     

    そばにいて、「引き出す」

     

    身体の固い人であっても、その人の中に、美しいエネルギーバランスは存在する。

     

    それは、その人を認め、良いところを自覚させ、Yogaを使って感じる力を

     

    養ってもらうということなんだなあと思うのだ。

     

     

     

     

     

     

    日記 みんな持ってるスピリチュアル

    • 2019.02.27 Wednesday
    • 19:35

     

    スピリチュアルっていう言葉。

     

    よくわからないし、私自身はそういう感覚がすごく鈍くて、時々

     

    「私、見えるの」「私、感じるの」という人がいると、へ〜と思って興味深く

     

    聞いているくらいだった。(全く興味なし、というわけではなかった 笑)

     

    私たちは、目に見えることしか信じない傾向があるけれど、オーラ、というか、

     

    雰囲気とか、そういうものは誰でも感じることができる。

     

    Yogaは、見えないものを感じる力を養うこと。

     

    例えば、色んなアーサナ(ポーズ)を取っている時、Yogaでは鏡を使わないので、

     

    目で確認ができない。

     

    自分の体のどこにエネルギーが通っているのか、呼吸が通っているのか、ということを

     

    「感じ」ていく。

     

    人との付き合いの中で、言葉以外で、相手の信頼、愛を「感じ」ていく。

     

    前に書いたけど、アートも愛を「感じる」ことだ。

     

    こう書くと、スピリチュアルって、結構身近。

     

     

     

    本当のことを言うと、どんな人も実は「愛を感じる力」を持っているのだ。

     

    でも、忙しく五感をフル稼働させて、意識を物質的に働かせているせいで、それが

     

    鈍ってしまってる人が多い。

     

    スピリチュアルな感覚よりも、物質的感覚の方がわかりやすく、強いために、

     

    私たちはいつも理屈で物を考えてしまう。

     

    言葉は大切なものだけど、一人歩きしやすい。「本心ではない」状態とは、

     

    本当の自分を無視して、心が作り出した幻想なのだ。

     

    だから、理屈で物を考えない練習をすることも大事だ。

     

    ハートが、シンプルに、幸せになる方向に行ってるかを感じるだけで良い。

     

    Yogaはその力を養う。

     

     

     

     

     

    日記 期待は欲になる

    • 2019.02.26 Tuesday
    • 23:31

     

    期待をしない、というと、何だか冷めているように聞こえるけれど、

     

    そうではない。

     

    全ての現象は、(人も含め)自分がどうこうできるものではないし、

     

    どう働きかけても、思ったままに行くこともあれば、行かないこともある。

     

    それを知っていれば、過度の期待をして苦しむことはない。

     

    じゃあ、自分は何をするのかというと、ただ、その場その場で精一杯やるだけなのだ。

     

     

     

     

     

     

    そして、例えば、その結果を褒めてもらったり、思った通りに上手くいったとしても、

     

    一瞬は素直に喜ぶが、すぐにそれを手放して行くことだ。

     

    なぜなら、いつまでも反芻していると、欲深になってしまうから。

     

    私は、根っこはおだてられたら木に登るタイプ。(笑)

     

    それをわかっているからこそ、褒められた時には極力注意する。

     

    つけ上らないように。傲慢にならないように。

     

    そうすることで、いつも自分に対して清々しくいられる。欲から自由でいられる。

     

    欲で心が曇ると、全ての反応が真っ直ぐじゃなくなる気がするのだ。

     

    自分の内側をチェックして、心の鏡をいつも磨こう。

     

     

     

     

     

     

    日記 その瞬間に向き合う

    • 2019.02.25 Monday
    • 09:45

     

    人は誰でも認めてもらいたい、愛してもらいたいと思っている。

     

    そんな気持ちない!と思っていても、絶対に心の奥底にはそれがある。

     

    だから、グレている子供にしっかり向き合って、その子がどんなに暴れても暴言吐いても

     

    真摯に向き合ううちに、変わっていった、という話を聞く。

     

    もしかして、この、「向き合ってくれる相手がいる」だけで、心も体も、いろんな問題の

     

    ほとんどが解決するのではないか?と思うくらい大事なことだ。

     

    病気の多くは、心の飢えからやってくるのだと思っている。

     

     

    恥ずかしい話なのだが、うちの者に、会話中なのに用事があるからと言って、スパッと

     

    席を立つのはやめてほしい、だったら食事の時間をずらしてよと言われて、ハッとした。

     

    彼は人との対峙を最も大事にする人なのだ。決して声を荒げず、上手くいく手立てまで

     

    考えて言ってくれるのがわかった。

     

    このところ、私は忙しく、同時に色々なことに気を配っている。

     

    自分は忙しいのだからと、彼に甘え、彼をないがしろにしていたことに気づいた。

     

    生返事、とか、上の空、心のこもってない会話、というのは相手に伝わるものだ。

     

    それをしていたのだと思った。

     

     

     

    インドのヴリンダーヴァンの寺院で、私は本当に大事にしてもらった。

     

    こんな、日本からやって来た集団の中のひとり、小さな存在である私を、グルデーヴをはじめ

     

    みんなが大事にしてくれたという感激を、周りの人たちにも伝えたいから、一人ひとりを

     

    私も大事にしたいと思っていた。

     

    ヨガティーチャーという立場もそうだけど、たくさんの人と関われば関わるほど、

     

    その分関係という糸の数が増える。

     

    それでも、1本1本をいい加減にしてはいけない。1本1本を大事にすることが必要なのだ。

     

    その瞬間、その時いる人とシンクロすること。

     

    それは相手も自分も豊かにする。

     

     

    それがわかって、相手に向き合うということを大事にしようと決めていたのに、

     

    一番大事な人に向き合ってなかったことにショックを受けたし、彼が言ってくれて

     

    本当に良かったなあと思った。

     

     

    日記 全ては与えられている

    • 2019.02.23 Saturday
    • 23:49

     

    全ては自分の力などではなく、運ばれている、と思うと

     

    執着もなくなるし、良い意味で身を委ねるという感覚になる。

     

    スピリチュアルな意識にない人でも、ちゃんと運ばれている。

     

    自分が良いと思う結果でも、悪いと思う結果でも、本当はそこには何かしらの意味がある。

     

    謙虚な気持ちになると、その意味が見えてくる。

     

    悪いことに出会った時、謙虚になれないと、それはただの「悪い結果」としか

     

    思えないのだなあと思う。

     

    問題から学べると、それは「苦」ではなくなる。

     

    その時は、苦しいと思うかもしれないけれど、じっと耐えて学びが来るのを待つと

     

    しばらくしてから、「あ!これって、私に気づかせるために与えられたんだ」と

     

    思う時が来るのだ。

     

    本当です。

     

     

    日記 ネガティブな考えを抑えるには

    • 2019.02.22 Friday
    • 18:33

     

    ふと気づくと、気になることで頭がいっぱいになっていないだろうか。

     

    下手すると、3日くらい、いや、決着がつくまでずっととか。(ーー;)

     

    Yogaを始める前までは、私もやはりそうだった。

     

    そうでなくても、私たちはいつも不必要な情報で、脳のエネルギーの大部分を消耗していると

     

    言われる。

     

    DMN(デフォルト・モード・ネットワーク)という脳の回路の働きなので、

     

    それは仕方ないことだし、実は人間は、意識しないと、悪い方向へ悪い方向へと

     

    考えていく傾向が強いという。

     

    えっ?脳のエネルギーを消耗して、わざわざ悪いこと考えてる?

     

    そうなのだ。自動的にそうなってしまうのだ。

     

    だから私たちは、この考え(つまり、心と言われるもの)を抑える必要がある。

     

    それにはどうするか?

     

    瞑想をすることがまずは大事。

     

    私はマントラを使う瞑想をしている。

     

    数珠を使って、唱えていく。

     

    神聖なマントラの音を唱えていくと、音のバイブレーションによって、ネガティブな

     

    思いが消されていく。

     

    DMNを働かせるヒマがないようにしていくことだ。

     

    それより何より、マントラを唱えていると、優しい気持ちになってくる。

     

    これは唱えてみるとわかります。

     

     

    チャンティングに使うお数珠を売っているお店。 私は師にいただいた、トゥラシーという

    神聖な木でできたお数珠を使っています。

     

     

    日記 執着から離れる

    • 2019.02.21 Thursday
    • 16:29

     

    自分の思うように行かないなあと思うことないですか?

     

    私にもあります。

     

    でも、これって結果を求めてること、欲があるということなんです。

     

    「こうしたい」「こうありたい」という理想があるからそれに向かって努力する。

     

    でも、本当のところで、その結果を委ねる、という姿勢が必要です。

     

    委ねるっていうのは、楽になるということです。

     

    一番良いように、クリシュナが計らってくださる、と思うと、欲に満ちた心が落ち着き、

     

    自分は結果に執着していたんだということに気づきます。

     

    ヴェーダの教えでは、執着が怒りを生むと言われます。

     

    自分のものにならない、自分から離れる、自分の望み通りにならない・・・自分、自分・・

     

    自分が物語の主人公になると、それが心の苦しみを生みます。

     

    だからYogaで、自分を観察するのです。

     

    エゴがなくなった時、余計な力が抜けて楽になります。

     

     

     

     

     

    日記 バランスをとる

    • 2019.02.20 Wednesday
    • 13:26

     

    私はヴェジタリアンで、ヴェーダの哲学に書かれているとおり、他の生命を苦しませない

     

    という教えがその元になっているのだけど、じゃあ、野菜はどうなの?野菜だって

     

    生命でしょう?と言われると、それはそうなのだが、要は「意識レベル」の問題なのだ。

     

    野菜だって痛みを感じるだろうし、殺されるのは嫌だと思う。

     

    でも、動物はもっともっと高いレベルでそれを感じる。

     

    殺される前、牛などは涙を流すのだそうだ。そう聞くと、やはり知能のある生命を

     

    苦しめて食べることには躊躇してしまう。

     

    同じく、革製品や羽毛、毛皮を使った製品を私は使わない。

     

    人にもそうあって欲しいし、他の命への思いやりを持ってもらいたいと思う。

     

    そういう思いやりは、育っていき、人に対しての思いやりにもつながると思うから。

     

    ただ、私は人をチェックしたりはしないし、そこは個人の考え方だと思っている。

     

    それぞれが、気づいて行くことなのだ。

     

    そこを突き詰めようとすると、「白か黒」「良い悪い」の世界になって行く。

     

    それが争いやネガティブな感情を生む。本末転倒になってしまうと思うのだ。

     

     


     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 愛を配り、愛を受け取るには

    • 2019.02.19 Tuesday
    • 10:51

     

     

     

     

    バクティYogaの教えでは、「自分を道端の藁よりも卑しいと思いなさい」と言われる。

     

    それくらい、自分を低くし、謙虚な心を大事にすると、それをクリシュナが見ていてくださる

     

    ということだ。

     

    でも、私たちは、ほとんどの人が「自分が」「自分は」「自分のもの」と、

     

    自分が認められたい、自分が所有したいと思ってしまう。

     

    普通に生きていれば当たり前のことだ。

     

    でも、この「自分が主人公」の考え方が、実はあらゆる苦しみの原因になるのだと知ると、

     

    ちょっと考えを変えてみようかと、思えないだろうか。

     

    「自分が主人公」の考え方をアハンカーラという。(ニセの自我、とも言われる)

     

    アハンカーラがあると、そこに欲が生まれる。欲が執着になり、執着から怒りが生まれる。

     

    アハンカーラはあらゆる苦しみの源だ。

     

    お金や物質や人が自分のものにならない、という不満だけではなく、

     

    「どうして私だけがこんな目に会うの?」「私はこんなに頑張っているのに、誰も認めて

     

    くれない」などという感情も、アハンカーラからやって来る。

     

    だからアハンカーラを捨てなさいと経典は言うのだ。

     

    でも、私を含め、多くの人が「そうなのか。だったら自分意識を捨てなくちゃ」と、

     

    すぐに意識を切り替えられるかといったら、なかなか難しいと思う。

     

    じゃあどうすればいいのか?

     

     

    一つ言えるのは、私たちが「自分」と思っているものは、実は心であるということだ。

     

    ここがちょっと難しいのだが、心というのは、自分であるようで、本当の自分ではない。

     

    何回かブログに書いているけど、心というのは常に揺れ動く、安定しないものだ。

     

    自由に飛び回る性質を持っているのだ。

     

    だから何か、苦しさや、素直じゃない自分、人を非難したくなった時、怒りが湧いてきた時こそ

     

    ちょっと離れて、そういう自分(心)を眺めて見て欲しい。

     

    必ず「自分が主人公」になっているはずだ。

     

    そういう観察ができてくると、だんだんニセの自分ではない、本当の自分が見えてくる。

     

    もう一つ。

     

    自意識から生まれた苦しみの中にいると、私たちは人に愛を配るのが難しくなる。

     

    そして、愛を受け取ることも難しくなる。

     

    いつも自分が最高でなければいけないと思う人が、どうやって他人と魂レベルの

     

    交流ができるだろう?

     

    魂を覆っているものを取り払うと、本当の幸せはやってくるのだ。

     

    本当の自分に戻れる時間を作りましょう。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 一人ひとりが大切な存在

    • 2019.02.18 Monday
    • 19:50

    寺院には世界中からバクティー(信愛)を求める人々が集まって来る

     

     

     

    去年インドのヴリンダーヴァンに行った時、私は熱射病になって倒れてしまった。

     

    目の不自由な方をお連れしてたので、多分、全く自分のことを構っていなかったのだ。

     

    日本の夏は暑くて湿度が高いが、北インドの10月は、暑くて思い切り乾燥していた。

     

    汗が流れないので、そんなに水分が蒸発してるとは思わなかった。

     

    気づくとひどい頭痛と吐き気に襲われ、寺院で寝込んでしまった。

     

    目の不自由なHさんのことを、一緒に行った仲間に頼んで、ベッドで苦しんでいると、

     

    私の師と姉妹弟子のKさんが部屋に来てくださり、聖者であり私の師であり、

     

    私の師のグルでもあるサドゥーマハラージャ師までが、私のことを心配してくださっていると

     

    聞いて驚いた。

     

    サドゥーマハラージャ師には恐らく何万人もの弟子がいらっしゃって、毎日毎日

     

    ひっきりなしに面会人が来る。後で知ったのだが、その一人一人に、マハラージャ師は

     

    ハグと祝福を授けるのだ。その面会する部屋も、ご自分が寝起きする部屋で、

     

    これが聖者のお部屋?とびっくりするような小ささ、質素さだ。

     

    物質的なことを書いて申し訳ないが、マハラージャ師は、弟子からの

     

    贈り物も人に配ってしまう。寺院には医療施設があって、お金のない人に無料で治療を施す。

     

    毎日プラサーダという食事を、門の外で配る。お金や物質は全て、慈悲にしてしまう。

     

    そんな偉大な方が、日本から来た小さな魂である私を心配してくださってる?

     

    私のために、医者を呼んで、点滴をしろと言ってくださったと聞いた。

     

    そして、日本からやって来た私たちグループのために、ご自分が休む時間を削って

     

    忙しく尽くしてくださっていたのに、師とKさんは、長い時間私の身体に手を当てて、

     

    癒してくださった。人の手の優しさを初めて知ったような気がした。

     

    仲間たちは、目の不自由なHさんの手を引いて案内してくれ、ひっきりなしに

     

    部屋にやって来ては、私の心配をして、薬やイオン飲料を差し入れてくれた。

     

    ベッドに横たわりながら、何度も泣いた。

     

    一人ひとりが大事なんだ。

     

    私も大事にしてもらえる。

     

    私もみんなを大事にする。

     

    誰も一人で放って置かれない。誰も放って置かない。

     

    そんなスタジオを作って、そこに来るみんなも大事にされて、家に帰って、家族を大事にし、

     

    職場で他人との関係を良くしてもらえたらいいなと思っている。

     

    みんな、自分が取るに足らない存在だなんて、思っちゃダメですよ。

     

    みんなが大切な存在なんだよー。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 本当の自分を取り戻すのがYoga

    • 2019.02.17 Sunday
    • 07:33

     

    Yogaに来てくださる方を少しでもスッキリさせて帰す、というのが私の役目だと

     

    思っている。

     

    だけど、Yogaは「エクササイズ」ではない。

     

    スッキリするだけなら、他の何でも良いのだ。ランニング、エアロビクス、ピラティス、

     

    ストレッチなどなど・・・・

     

    じゃあ、何でYogaなの?というと、そこに「気づき」があるからなのだ。

     

    Yogaのアサナでは呼吸を使って、エネルギーを身体に巡らす。

     

    すると、エネルギーの滞る部分に気づいてくる。

     

    そこに、例えば無理な力が入っていたり、体を痛める使い方をしていたり。

     

    Yogaの練習でそれが出てるということは、大抵は普段の生活でもそれをしている。

     

    「感じる力」を養っていくことで、それに気づき、直していくことができるようになる。

     

    今、自分がどういう状態か、ということがわからないと、変化はできない。

     

    クラス中に感じたことを1週間の間、少しでも日常に生かしてもらうと、それもYogaになる。

     

    身体に気づいていくことで、心も変わっていくのだ。

     

     

    Yogaは生き方だということ。

     

    Yoga = ユジュ(サンスクリット語で「結びつく」という意味)から来ている

     

    何と何が結びつくのでしょう?

     

    それは私たちの魂と、私たちを生かしてくれている存在を結びつけるということ。

     

    それを意識していると、毎日生きてること自体がYogaになっていく。

     

    それは自分に気づき、自分を「良くしていく」ことに他ならない。

     

    なぜなら、私たちの魂の本当の性質は、「永遠で、幸福で、知識に満たされている」と

     

    言われているからだ。そこにまた戻っていく、というのがYogaなのだ。

     

     

     

    今日は、東京のH先生のスタジオの2周年記念で、プージャという吉兆な儀式がある。

     

    祈りが溢れる日になる。

     

    私も、東京からみんなのことを思って祈りますね。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 目で見えないもの

    • 2019.02.16 Saturday
    • 19:12

    インドでは神様に捧げるお花は香りがなければいけないと言われる。マリーゴールドはすごく

    よく使われてる

     

     

     

    「Yogaは自分を浄化する行法」というと、えっ?そうなの?と大層なことのように思って

     

    しまうかもしれない。

     

    クラスの中で、そんなことはないんですよと言ってる。

     

    誰だって一生懸命この世を生きていれば、色んな汚れがついてくる。

     

    身体だって、汚れるからお風呂に入る。それと同じで、心もキレイにしないと、

     

    見えないものを見る目が曇ってしまうのだ。

     

    実は目で見えるものよりも、見えないものを見る目の方がずっと大事だ。

     

    別にユーレイを見なさいとか言ってるわけじゃないし、特殊な能力を開発したい

     

    わけでもないですよ。(^^)

     

    いつもいつも目で見えるもの、聞こえるものだけに感覚を向けていると、本当は微細なはずの

     

    「感じる力」が鈍ってきてしまうのだ。

     

    昔私がYogaを受けても、その優しさがわからなかったように、どんなに自分が自分を

     

    いじめていたかに気づかなかったように。

     

    あの頃、センサーが全て大雑把になってしまっていたなあと思う。

     

    それは、人に対しても。

     

    感じる力が養われると、人を思いやる心も、もっともっとついてくると思う。

     

    それは、例えば、「赤」という色を、ただ「赤」と認識するのではなく、

     

    どんな赤なのか、ということが見えてくることのように思う。

     

    深みのある赤だったり、

     

    優しい赤だったり、

     

    情熱的な赤だったり

     

     

    浄化・・・それは、自分の内側に気づいていくこと。

     

    気づきこそ、変化の第一歩なのです。

     

     

     

     

     

     

    日記 思い出

    • 2019.02.15 Friday
    • 09:31

     

     

    私は純粋な人が好きだった。もしかして、父母を人に投影して、比べていたかもしれない。

     

    特に父は、本当に純粋な人だった。

     

    日本に引き揚げてきて、祖父が不在になり、祖母は父たち三姉弟を女手一つで

     

    (親戚も頼ったが)育てた。

     

    父は働けるようになると、もらったお金を全て祖母に渡し、畑も耕し、洗面器数杯の水で

     

    全身を洗ったり、風呂の残り水を畑にまいて節約し、家族を養った。

     

    大きな会社に就職した後も、外食もせず、お金のかかる趣味を一切持たず、

     

    わずかな自分の小遣いまで貯めていた。

     

    私が大人になってからも、「小遣いはあるのか?」と自分の貯めた小遣いをくれようとしたり、

     

    事業に失敗した親戚に、お金を疑うことなく貸したこともあるという。

     

    身なりもあまり構わなかったので、母が「もうちょっと小綺麗にしたら」とよく言っていた。

     

    あまりにも純粋で一途で不器用だったので、バカにされることもあったようだが、父を

     

    慕ってくれた方達は、父の一途さを好きでいてくれたのだと思う。

     

    父が亡くなった時、将棋仲間だったという八百屋のおじさんが、フルーツを持って

     

    父に会いに来てくれた時は驚いた。

     

    そんな父を、若い頃は全く尊敬していなかったが、今、父からもらったものは

     

    すごく大きかったなと思えている。

     

    人のために、自分を省みずに尽くした人のモデルがすぐそばにいた。

     

    私は父には到底及ばないけれど、その生き方をいつも頭に入れておきたいと、

     

    この歳になって、やっと思えるようになった。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 当たり前ではないと思うこと

    • 2019.02.14 Thursday
    • 15:27

     

    人は生かされている、とよく言う。

     

    周りの人だけではない。食べるものも、住むところも、着るものも、自分だけの力で

     

    得られない。

     

    そう考えると、「生かされている」と言う言葉は、軽くないということがわかる。

     

    全てに感謝して生きたいな、と私も昔から思ってきた。

     

    でも、思うだけで、なかなか、いつもいつもそれを意識することができないでいた。

     

    これが「頭でわかっている」状態だったのだと思う。

     

    これを行動で表して、心から人や物に礼を尽くしている方を見たとき、

     

    最初はそこまでできるなんてすごい、自分にはどうしてできないのかなと思った。

     

    形を真似することはできる。

     

    でも、本当かどうかというのは、見ればわかる。

     

    ・・・と言っても、形を真似することは、最初は大事なのだ。

     

    「肉体は魂の入れ物」と言われるが、形に意識を入れるために、形を先にすることも必要なのだ。

     

    「ありがとうございます」を言えなかったら、言ってみるのだ。

     

    小さな一歩かもしれないけれど、確実な小さな一歩。

     

    徐々に、全てが当たり前なのだ、と思わなくなっていく。

     

    そんな謙虚さに、神様が慈悲をくださらないわけがない。

     

     

     

     

     

     

     

    日記 必要なルールは「幸せに向かうか?」ということ

    • 2019.02.13 Wednesday
    • 13:24

     

    「こうじゃなくては」「こうあるべき」という縛りを持って生きている人は

     

    苦しい。

     

    それが自分にとっての幸せなら良いのだけど、大抵は、そこから外れることを

     

    恐れ、外れてしまうと不満から怒りになり、果ては人や自分を責めてしまう。

     

    世間の常識やルールと言われることも、ちょっと疑ってみたほうがいい事もある。

     

     

    ある日、私は駅のホームへの階段を登っていた。登る段に、↑矢印が描いてあったので、

     

    その↑の部分を登っていたら、そちらの側に電車が到着して、私の登っている上りの部分を、

     

    人がどっと降りてきた。そこで、邪魔にならないように、急いで人が来ない反対側の

     

    下りの↓矢印の部分に避難し、ゆっくり階段を登った。

     

    すると、中年と思われる女性が、「矢印描いてあるの、見えないの?上りはあっち!!」と

     

    大きな声で怒りながら、私の横を駆け下りて行った。

     

     

    こういう人は、例を変えればたくさんいる。

     

    私はもちろん、描いてある↓矢印を逆行してたのだから、そこだけ見ればルールを守っていなかった。

     

    それを云々したいのではなく、怒ってきた女性が大変だなと思った。

     

    私は人がいないスペースに移って階段を登ったので、周りに迷惑をかけていなかったのだけど、

     

    ただの矢印の向きを守れないことに、怒りを覚えていた女性が心配になった。

     

    何か仕事のストレス等でイライラしていたのかもしれないけれど。

     

    そんなことを言ったら、私が最初登っていた↑矢印の部分を降りてきた沢山の人達だって

     

    ルール違反じゃん!ということはさておき。(笑)

     

    そういう目線で見てしまうと、世の中にはルール違反は山ほどある。

     

    ルールを守らないと、秩序が乱れる。

     

    でも、人に迷惑をかけてなければ、それはフレキシブルであるべきじゃないのか?と私は思う。

     

    一律にどんな瞬間でも守らなくてはならない、というルールもあるが、状況状況で動かした方が

     

    良いシーンも多いのだ。

     

    だって、ルールって人のためにあるわけで、ルールのために人がいるわけではないのだから。

     

     

    昔、あの人がルールを守っていない、と週に1度は警察に通報する人がいた。

     

    それについて私はどうこう言えないが、ただ、「生きていくの、大変だなー」と思った。

     

    いつも他人をチェックしていることが、果たして自分を幸せにするのだろうか?

     

    これは一つの例だけど、自分が「こうあるべき」と思っている縛りやルールが、人や自分を

     

    不幸にしてないか?と一度チェックして見たらどうだろう?

     

     

    私たちは幸せに向かって生きたい。

     

    「全て幸せに向かうためにする」という目的に合っているのか、検証をしてみると、なんだか

     

    いらない縛りとルールに執着していることがわかるかもしれない。

     

    自分が幸せでいることで、人も幸せにできる。

     

    なぜなら、幸せのバイブレーションは人に伝わるからだ。

     

    そのバイブレーションは、自分が思っているよりずっと広く周りに広がるし、自分にも

     

    返ってくるものなのだ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 心とは 2

    • 2019.02.12 Tuesday
    • 11:15

     

    Yogaで学ぶ、心の働き。

     

    これがどれだけ私にとって役立ったか。

     

    小学校に行ってた頃、緊張症の私は、友達との関係を作るのが下手だった。

     

    無理に自分を作っていたので、内面と外側が違ってしまっていたと思う。

     

    そんな、ねじれた外側と内側を持つ私には、苦しいことがすごく多かった。

     

    どうして自分は、こんな”悪い”ことを考えてしまうのか?

     

    どうして自分の思い通りにならないのか?

     

    もしその頃、「心とはこういう性質を持っているのだ」と、わかるように教えてもらえてたら、

     

    もっと楽になっただろうなと思う。

     

    あれから数十年。

     

    やっと心の働きを知ることができた私は、ストレスから救われ、毎日なんとか

     

    穏やかに過ごすことができている。

     

    Yogaで学ぶ教典、「バガヴァッド・ギーター」はじめ、様々な教典に、

     

    「心を収めよ」ということは、まず、書かれている。

     

    それくらい、心は暴れん坊で、強い。本当の自分を覆い隠す力を、持っている。

     

    その静め方を知ることは、実は人生のテーマにもなるくらい、大きなテーマにもなる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 感謝を捧げること

    • 2019.02.11 Monday
    • 18:35

     

    祈ることって、とても大切だと思う。

     

    日本人は昔から、神の存在を身近に感じ、ことあるごとに祭事を行ったり、

     

    祈りを捧げてきた。

     

    年末年始に奈良に旅行した時、そこにはたくさんの祈りの町があった。

     

    奈良じゅうが祈りの場所と言ってもいいかもしれないくらいだ。

     

    各町、数十メートル毎に鳥居があったり、神社がある。もちろん仏閣も。

     

    私たちの一番の目当ては、天川村の天河弁財天だったのだが、その神社は1300年も昔から

     

    続いているだけでなく、建物ができる前から何千年もその場所で祈りの儀式が行われてきたらしい。

     

    天河弁財天では、マントラ(真言)も唱えた。

     

    (これには驚いたが、よく考えてみると、弁財天は、サラスワティーという

     

    インドの女神様のことなのだ)

     

    マンは心。トラは解放という意味。

     

    音のバイブレーションが、心を揺さぶり、汚れを取り除いてくれると言われている。

     

    マントラは音の科学とも言われている。

     

    なぜYogaの前に唱えるのか。それはYogaが自分の内側もキレイにする浄化法だからだ。

     

    祈るという行為は、自分を素直に、謙虚にしてくれることを誰もが知っているから、

     

    祈るのだろう。

     

    神様に祈るのは、人は自分の力ではどうにもならないものがあることを知っているからだ。

     

    自分が生かされていることに感謝を捧げると、人は謙虚になって行く。

     

    その祈りをマントラに込める。

     

    「自分が正しい」と思うエゴを取り除いてくれる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 頑張って来たんだね

    • 2019.02.09 Saturday
    • 14:14

     

    日々の生活と仕事を頑張っていると、とにかく外側の刺激に対処し続けることになる。

     

    容赦無くやって来る「やるべきこと」

     

    その上に、自分で「こうあらねば」という縛りまで作る。

     

    それが、どれだけ自分を痛めつけているかに、気づいてない人が多い。

     

     

     

    一生懸命、仕事をすることは、「忘我」につながる。

     

    それはもちろん、大事なことだ。目の前のことに集中することは、余計な考えを

     

    取り除いてくれる。

     

    でも、やるべきことが多すぎると、今度はそのやるべき事で、頭が占められる。

     

    「常に先回りして手を打て」、「先のことを考えて動け」と言われ、常に常に

     

    するべきことが「自分」を動かす。

     

    その瞬間、「自分」はどこにいるのか?

     

    この瞬間瞬間に自分がいなければ、この先も、どこにも自分はいなくなってしまう。

     

     

    例えば、

     

    じーっと動かずにPCに向かい、背を丸め続けたまま集中し続ける。

     

    頭はPCの中に飛んでいる。

     

    自分の身体のことなど、全く考えていない。

     

    それを、毎日例えば2時間続けたとして、1週間で10時間、1ヶ月で40時間、

     

    身体に、その姿勢を覚えこませるエクササイズをしているようなものだ。

     

    そのままそれを続けるとどうなるか?体に負担をかける姿勢が出来上がるだけでなく、

     

    肩こり、腰痛、胃炎、頭痛等の症状が出たり、様々な病気にもかかるかもしれない。

     

     

    Yogaに来て、自分がどれほどリラックスしないで来たか、ということに気づいて欲しい。

     

    どれほど、結果を強いられ、自分を省みることなく頑張って来たかを。

     

    つま先の向き一つ見ても、それが現れる。

     

    リラックスというのは、リラックスを知っている人ができるのだ。

     

    寝ることはリラックスではない。

     

     

     

     

     

    日記 日々の生活の中で

    • 2019.02.08 Friday
    • 16:32

     

    約10年勤めた会社をやめたのは、Yogaを教えるということが私の本当の

     

    ダルマだなーと確信したから。

     

    私は単純なので、「これ」と思ったら、すぐに飛び乗る。(笑)

     

    でも、もしYogaをしていなかったら、(もし〜したらの話はしても仕方ないですよと、

     

    師に言われたが)本当は向いてない営業の仕事を続け、なんか違うなーと思いながら

     

    歳をとっていたと思う。

     

    だけど、あの10年で、学んだことが沢山あったのも確かだ。

     

    1日に100件近くの電話を受け、担当のお客様、協力会社とのやり取りをして

     

    何十件も同時進行する案件のスケジューリングをするという、天然の私には

     

    大分荷の重い仕事をしていた。綱渡り的な事も結構した。

     

    社内も、協力会社も、お客様(うちの会社は流通だったので)もみんなギリギリの中で

     

    頑張ってるので、時に感情的なぶつかり合いにもなった。

     

    でも、その中で生まれて来るきずながあった。「同志」みたいな愛情も湧いてきた。

     

    あの10年はハードだったけど、自分を試された分、我慢強さだけは身についたと思っている。

     

     

    毎日家に帰っても仕事のことで頭がいっぱいなのに、家事もしっかりした。

     

    これもトレーニングだと思って頑張ったけれど、ついに限界が来た時に、本物のYogaに

     

    出会えたのは幸運だった。

     

     

    それまで何度か受けて来たクラスでは、先生が言う優しい言葉も

     

    「それはいいから、早く動こうよ」なんて思って、聞いてなかった。

     

    「自分を癒してあげましょう」

     

    「執着を手放しましょう」

     

    なんて言われても、意味がわからなかったのだ。

     

    初めてYogaのレッスンを受けた時には、何も感じなかったことが、その時はギリギリだった

     

    からこそ、しみ込んで来たのだと思う。

     

    問題は、何かに気づけるチャンス。

     

    病気や、喧嘩や、失敗も。

     

     

    最近、昔、私が友達に与えたひどい(と思った)仕打ちが、全く同じ形で返って来た。

     

    全く別の人からだけど。

     

    どうしてだろう?と思っていたら、急に思い出したのだ。

     

    「私が昔したことと、全く同じじゃん!」

     

    あまりの一致性に、「あ、カルマ(反作用)だ」と思った。

     

    気づけて良かったなと思った。

     

    昔ひどいことをしてしまった友達には申し訳なかったと思うけれど、その時は気づいて

     

    なかったのだ。

     

    友達はこんな思いをしたんだなと思って、胸が疼いた。

     

    クリシュナ神様が気づかせてくれたのだと思っている。

     

     

     

     

     

     

    日記 心とは

    • 2019.02.07 Thursday
    • 14:38

     

    クラスの中でよく、

     

    「自分を心や体と思わないこと」と言っているが、頭で理解しようとしても

     

    なかなか難しいと思うので、それを実体験するために、アーサナ(アサナ)の

     

    練習をして感じてもらう。身体や心の状態を俯瞰することによって、自分の内側にある

     

    「自分を見ているもの」に気づいてもらえたらと思っている。

     

    これは、日本では有名な、「ヨーガスートラ」というインドの古代から続く経典にも、

     

    書かれている。

     

    ヨーガスートラには、八支則(アシュタンガ)に従って修行しなさいと

     

    いうことが書かれている。

     

    1、ヤマ (禁戒:してはいけないこと)盗んではいけないとか、人を傷つけない、

     

      嘘をつかないなどの道徳的な戒律

     

    2、ニヤマ (勧戒:すべきこと)

     

    3、アーサナ (坐法(と訳されることが多い):Yogaのクラスで行うポーズの練習)

     

    4、プラーナーヤーマ (呼吸法(と訳されることが多い):プラーナという気を取り入れる)

     

    5、プラティヤーハーラ (制感:感覚を支配する)

     

    6、ダーラナー (集中)

     

    7、ディヤーナ (瞑想)

     

    8、サマーディー (三昧)

     

    という8段階の修行の段階を経て、解脱する、というものだ。

     

    本当のYogaを知らない生徒さんたちにこれを言うと、

     

    「別に解脱したくない」「アーサナの練習だけしていたい」と言うかもしれない。

     

    (サマーディーという境地は、聖者の方の領域になるので、このアシュタンガだけを

     

    使って目指すには、相当のことをしないと辿り着けないと言われている。

     

    だから、「サマーディー目指したいです」と言って、アーサナだけやってても

     

    無理ですよと言う他はない。)

     

    でも、ヤマ、ニヤマや、アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想などは、もちろん、「修行!」と

     

    鼻息を荒くしなくても、やった方が良いことは事実だ。

     

    心(チッタ)は水のように揺れ動き、安定しない。それを自分だと思ってはいけない。

     

     

     

    ヨーガスートラが有名なので引用したが、インドの哲学では、「自分は何者なのか」を

     

    知ることが最も大切で、Yogaの修行の本当の目的もそのためにあるし、どんな哲学でも

     

    それを追求していることには変わりがない。

     

    「自分は何者?」なんて、どうでも良いという人もいるかもしれないけれど、

     

    そういう人は、そういう生き方をするように運命付けられているかもしれないので、

     

    無理にわかろうとしなくても良いと思う。(タイミングが違うという事もある)

     

    ただ、一つだけ知っておいた方が良いのは、自分の主人は、心ではない、ということだ。

     

    私たちは、普段、心の言うなりに動き、苦しんだり、悲しんだり、喜んだりする。

     

    心はすごく強いパワーを持っていて、自分がしたい方向に、この身を動かす。

     

    「あれが欲しい」

     

    「これがしたい」

     

    「楽したい」

     

    心は感覚を喜ばせるためなら、身体になんでもさせる。

     

    感覚を喜ばせようとする欲望には際限がない。

     

    思い通りにならないと、そこには怒りが生まれ、さらに、そこには苦しみが生まれる。

     

    「自分の思い通り」はエゴと呼ばれる。

     

    自分の思い通りにしたいという欲望はカルマ(反作用)を生むと言われている。

     

    ほとんどの人たちは、このエゴの存在にすら気づいてない。無意識のうちに

     

    「自分が」決めていると信じているのだ。

     

    アシュタンガのうちの、5のプラティヤーハーラ(制感)というのは、五感を制御し、

     

    心の言うことを聞かないようにする、と言うことだ。

     

    なぜなら、自分の主人は純粋意識(魂)だからだ。

     

     

    心を自分と思わず、いつも俯瞰できるようにすると、ジェットコースターのような

     

    毎日から少し自由になる。エゴが顔を出しても、抑えることができるようになる。

     

     

    どうしてこんなにイライラするのか?

     

    どうして何かの依存症になってしまうのか?

     

    どうして人と争い、人より上で居たいのか?

     

    どうして「こうあるべき」と思っているのか?

     

    それは全部「心」に支配されているっていうことですよー。

     

    それに気づくことが大切。


     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 毎日がYoga

    • 2019.02.06 Wednesday
    • 19:03

     

    師の奥様のKさんとお茶会をさせて頂いた。

     

    しなやかで、力強い竹のようであり、花のように可憐でもある。大好き過ぎて

     

    走りたくなる(笑)(よくわかんないが)

     

    でも、好きっていう感情も、実は執着の元になるので、穏やかな感情にとどめる必要があるん

     

    だけどね。

     

     

    私たちは、人を評価して、好き嫌いで選んでしまいがちだが、Kさんはどんな方にも同じに、

     

    分け隔てない愛を持って接する。

     

    まるで母のような方だ。

     

    去年お邪魔した時には、タクシーの運転手さんにまで、手作りの食べ物を渡していた。

     

    「食べるものを嫌いな人はいないでしょ?それで喜んでもらえると、嬉しくなるの」と

     

    おっしゃる。

     

    人との関係で、自分に何かネガティブさが現れたり(嫌い、と思ったり)相手に自分の欲望を

     

    ぶつける時、そこには自分が跳ね返って現れている、という話をしてくださった。

     

    自分の中の汚いものが、相手を通じて現れてるのよ、と。

     

    だから私たちは、人との関係を通じてYogaを修行しているのだ。

     

    Yogaは自分の内側(肉体や心)を浄化していくことだ。

     

    自分の内側を見て、それに気づいてキレイにしていくと、どんどん、どんな相手とも

     

    うまくやって行けるようになるのだそうだ。

     

    「だから、苦手な人が多いってことは、自分の内側の汚れがまだまだ多いってことよ」

     

     

    Yogaって、生き方なんだよな。

     

    でも、自分を浄化だなんて言ってられないくらい、すっごい辛さの中にいる人は

     

    まず自分を守ってあげなきゃいけないですよ。あらゆる手を使って

     

    人に助けてもらう。それがまず必要。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 世話

    • 2019.02.05 Tuesday
    • 19:06

     

    「迷惑かけちゃいけない」と思うのは当然の心理なのだけど、

     

    裏返すと、もしかして、「迷惑かけられたくない」と思っているということ。

     

     

     

    この迷惑を、「世話」という言葉に置き換えたらどうだろう。

     

    「世話」は、実はサンスクリット語の「セーヴァ」から来ているそうだ。

     

    奉仕、崇拝という意味だ。

     

    「相手を思いやって、尽くす」という行為を指すのだが、

     

    日本には、ビジネス抜きに、人に尽くすということが少なくなって来ている

     

    ように思う。

     

    人との距離感と、思いやる行為とは別なのに、それが同じように思えるのかも。

     

    近すぎる、ベタベタするのが嫌、人に甘えたら距離が近くなりすぎるって思うのは、

     

    ちょっと違うと思う。何か勘違いしている。

     

    シンプルに、困ったら助けを求め、人に思いやりを示すだけで良いのだ。

     

    インド、ヴリンダーヴァンでは、知らない人でも困っていたら、みんなが手を貸す。

     

    もっと人に世話になって、人の世話をするのが当然と思えるような

     

    そんな日本になるといいなと思う。

     

     

     

     

     

     

    日記

    • 2019.02.04 Monday
    • 13:56

    外側を変えても、内側を変えることはできない(聖者 サドゥー・マハラージャ)

     

     

     

    今日だけのようだけど、春のポカポカが気持ちいい。

     

    雨も降ったので、呼吸がしやすい。

     

     

    昨日のYogaのティーチャーズトレーニングで、先生が「実践することが何よりも大事」

     

    とおっしゃったが、最近、本当に、それに気づかされまくってる。

     

    ヴェーダの知識が本当に生きるのは、生活に生かしてこそなのだ。

     

    体験すると初めて「腑に落ちる」。

     

    現代社会も同じ。

     

    知識だけを持ってる人は大勢いるけれど、それを使うのは知性。

     

    知性がなければ、知識を正しく使うことができない。

     

    それがヴェーダの教えだ。

     

    生活全般がトレーニングだと思って生きてきた。

     

    そうしないと人並みのことができなかったからだけど、本当のことを言うと、

     

    自分を使って実験して、面白がってた。

     

    Yogaもそうだった。私はYogaを面白がっている。

     

    どんどん自分にできなかったことが、できるようになって行く。

     

    脳の中もスッキリ整い、生活しやすくなって行く。

     

    Yogaは哲学。ヴェーダの教えだ。

     

    Yogaはどの時代にあっても不動。

     

    人間をポジティブな方向に導いて行く。

     

    だからぐちゃぐちゃだーと思う人は、生活に「プラス」すればいい。

     

    それだけで、何かが変わるはずです。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 ヴェジ

    • 2019.02.03 Sunday
    • 07:40

     

    ヴェジタリアン歴1年半。私はインドの人と同じで

     

    ラクトヴェジタリアンという、乳製品を取るヴェジタリアン。

     

    チーズは、レンネットという子牛の胃袋に含まれる酵素ではなく、植物の酵素を使ったものを

     

    食べている。(四つ葉のゴーダチーズとか、シュレッダーチーズが手に入りやすいので

     

    気に入ってる)

     

    コンソメや出汁も、最近はヴェジ用があるし、ドライトマトや椎茸で良い出汁も取れるので、

     

    そんなには困らない。

     

    はじめ、とにかく肉魚卵を抜いてみたのだが、何も考えずにやったもんだから

     

    体調を思い切り崩してしまった。

     

    ヴェジタリアンになったのはいいけど、体調を崩したりしたら、Yogaを教えられなく

     

    なってしまうと思ったので、それからはかなり考えて食事を作るようになった。

     

    肉はともかく、魚にはオメガ3とかオメガ6という、体内で作れない不飽和脂肪酸が入っていて

     

    それらが取れないと、様々な病気にかかりやすくなるし、脳にも影響するという。

     

    そこで、それらが含まれてる植物性の食品はかなり積極的に取るようになった。

     

    荏胡麻油、クルミやアーモンド、アボカド、海苔は毎日取っている。

     

    牛はミルクを出して人間を養ってくれる母のような存在とされる。

     

     

     

    今、世界中にヴェジタリアンは増えている。

     

    日本はヴェジタリアン後進国だ。

     

    都会では近年増えてきたとはいっても、地方では、まだまだヴェジレストランは少ない。

     

    あと2年でオリンピックも来るので、もっと世界水準にしておく必要があると思う。

     

    何も特別なメニューじゃなくていいんだけどな。

     

    昔の日本人はヴェジタリアンだった。

     

    肉のメニューの方が特別だったのだ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 聖者

    • 2019.02.02 Saturday
    • 18:55

     

    ヴリンダーヴァン巡礼プログラムの募集をホームページに載せたので、

     

    ご覧ください。今年の11月、ぜひご一緒にヴリンダーヴァンへ行きましょう。

     

    愛の聖者にお会いできます!

     

     

    去年、不思議なご縁で、2回ヴリンダーヴァンに行くことになった。

     

    ヴリンダーヴァンって、あまり日本では知られていない。

     

    それは、ヴリンダーヴァンが「隠された聖地」と言われているからだ。

     

    Yogaをする人たちの間で有名な本、「あるヨギの自叙伝」を書かれた

     

    パラマハンサ・ヨガナンダという聖者がいらっしゃる。

     

    この方は、ガンジーにもクリア・Yogaという教えを授け、その後ガンジーは

     

    毎日クリア・Yogaを実践なさったそうだ。

     

    パラマハンサ・ヨガナンダ師は、インドの切手にもなっている、偉大な魂なのだ。

     

    この方もヴリンダーヴァンに旅されて、クリシュナ(至上主である神様)の慈悲を頂いたことが

     

    書かれている。

     

    ヨガナンダ師のような「聖者」って、今までの私の人生では、昔の伝説的なイメージだった。

     

    イエス・キリストみたいな感じで、遠い遠い昔の話に出てくる人と思っていた。

     

    まさか現代に聖者がいるなんてと思っていたのだ。

     

     

    Yogaのティーチャーズトレーニングで、課題本として何冊か読むように言われたうちの

     

    1冊が、「あるヨギの自叙伝」だった。

     

    見えるものしか信じなかった私は、最初は書いてあることが信じられなくて、

     

    そんなことあるわけない!と思ったが、読み進めるうちに、これらが実際に起こったこと

     

    なのだと確信していった。(不思議な現象をおこせるヨギの力を神秘力、というらしい)

     

    そして、そこから私のYogaって何?が始まった。

     

    神秘力について追求するつもりはないけれど、どうしてYogaをすると心がスッキリするんだろう?

     

    どうして毎日が穏やかになるんだろう?・・・から始まり、あらゆる人間の生き方に

     

    関する疑問を解く、インド哲学を学ぶことになっていった。

     

     

     

     

     

    さて、ヨガナンダ師はさておいて、2回目のヴリンダーヴァンで、私は本物の聖者に

     

    お会いすることができた。

     

    聖者は、私たちの目の前で、目に見えるマジックで驚愕させて、「信じさせる」わけではない。

     

    愛によって、私たちを包み込んでくださった。それこそがマジックなのだ。

     

    私の、理屈でいっぱいで、常に理由を求める頭に

     

    愛に理由はない、ハートが大事なんだということを、わからせてくださった。

     

    信じるとか、信じないとかも、どうでも良いことなのだ。

     

    人間には愛が必要。

     

    「○○だから、愛する」のではない。理解できるから愛するのは本当ではない。

     

    旦那さんの、奥さんの、彼氏、彼女のここが好きだから愛している、というのは、

     

    ちょっと違うような気がする。なぜ愛してるのか?とハートに聞いてみよう。

     

    本当の愛には理由がない。

     

    「〜だから」という条件はいらない。無条件に、ただハートで惹きつけられていく感覚を

     

    思い出すことなんだなーと、ヴリンダーヴァンは思い出させてくれた。

     

    聖者サドゥー・マハラージャ

     

     

     

     

     

     

     

     

    日記 実感してる

    • 2019.02.01 Friday
    • 17:25

     

     

    カルマの法則(作用、反作用の法則)っていうのを前にもう一つのブログに書いた。

     

    (その後、師の話で、カルマにはもう少し深い意味があると聞いたので、それは

     

    いつか書きます)

     

     

    先日、ティーチャー仲間から、こんな話を聞いた。

     

    仕事中、失敗をしてしまったら、上の人から「使えねえなー」と言われ、チッと舌打ちまで

     

    されてしまったらしい。謝って、失敗してしまった部分を探したら、幸いすぐに見つかり

     

    やり直した。

     

    その直後、その上の人が、全く同じ失敗をしてしまったことがわかった。その人が失敗した部分は

     

    もうだいぶ先まで行ってしまっていて、その上の人は大量の製品の箱を一つずつ開けて

     

    点検する羽目になったそうだ。

     

    いつもは全くミスをしない人なのに、やっぱりそういう言葉を吐いたからかもねと

     

    彼女は言っていた。

     

    ・・・という話を聞いてから、その後、ある人が、

     

    「私がこんなに苦しんでいるのは、自分が人に同じことをしてきたからだと思う」と言う。

     

     

    どっちの話も、そういうこともあるよ、偶然だよと聞くことはできるのだが、

     

    ちょっと待てよと、私自身のことを考えてみた。

     

    今現象してることって、かつて私がしてきたことを受けてるのかな。

     

    (自分で書いてるくせに、リアリティに気づいてない)

     

    あー、そういう風に考えると、どれもこれも思い当たることばかりだー!

     

     

    気づかなかったことに、気づく。

     

    ネガティブを投げれば、ネガティブを返される。

     

    ポジティブを投げれば、ポジティブを返される。

     

    しかも、投げた対象から返ってこないこともある。

     

    「情けは人の為ならず」の意味は二つあるという。

     

    1、その人の為を思うなら、甘やかさない

     

    2、人に親切にすると、いつかそれが返ってくる

     

     

    わわわー。そういうこと?

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    PR

    calendar

    S M T W T F S
         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    2425262728  
    << February 2019 >>

    selected entries

    categories

    archives

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM