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  • 2020.12.20 Sunday

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    小さな存在

    • 2020.12.20 Sunday
    • 19:30

     

    ネットの記事を読むと、それに対するたくさんの人のコメントが投稿されてるのを

     

    良く見る。

     

    いつも驚くのは、一定以上の👎のマークがあることだ。

     

    例えば「富士山の冠雪が綺麗だった」とだけ書かれた記事なのに、そこにも👎が

     

    少なからずある。

     

    そして、多くの投稿は批判的なものが多いのにも驚く。

     

    さすがに「富士山の冠雪が綺麗だった」のような記事への批判はあまりないけれど、時々

     

    「呑気でいいですね」みたいなことが書かれている。

     

    自分は忙しくて、富士山を眺める暇もないということなのだろう。

     

    批判している人は、完全に余裕のない人で、人の書いたこと、人のすることをこき下ろす

     

    ことでウサを晴らしているのかなと思う。

     

    私が言いたいのは、「人のことは放っておけ」ということ。

     

    人を無視するとかそういう意味ではなくて、そう感じる人がいることを

     

    認め、そうさせておいてあげなさいということだ。

     

    (こういうことを書くと、「私がそう書くことだって自由だ」と言う人がいるけど、

     

    そうなってくると幼稚な上げ足の取り合いになるだけなので、そういう低い場には

     

    降りたくない)

     

     

    人がすることを悪意を持って批判することは、自我(アハンカーラ)が飛び出て

     

    来ているということなのだ。つまり、エゴが強くなっているということ。

     

    自分が正しく、周りは間違っているという思いが根っこにある。

     

    自分は頑張ってるのに、認めてもらえないとか、生きていくのに精一杯だとか

     

    それなりに事情はあると思う。

     

    でも、そういう時、人は周りの人を敵のように思って攻撃的になる。

     

    自分自身にベクトルが向いていく。その時、自分を俯瞰できるかどうかで

     

    楽になれるかなれないかも変わる気がする。

     

     

    昔「世界に一つだけの花」という歌があって、大ヒットした記憶があるけれど、

     

    どんな小さな花でも一生懸命咲けばいいという歌詞だったと思う。

     

    本当にそうだなと思う。素敵な歌。

     

    でも、自分が幸せではない時、他の小さな花がきれいに咲いていることを

     

    認めたくない思いが出てくる人がいる。

     

    その妬みの感情ほど、醜悪なものはないとヨーガの経典に書かれている。

     

    じゃあ、例えば誰が見ても「間違った」「良くない」と思われる行動をしている人が

     

    いるときはどうするの?

     

    愛を持って言うのです。

     

    言うことも愛。だって勇気が要る。言うのにも。

     

    相手がどうなっても良いと思っているなら、言えない。

     

    記事にコメントを投稿する時も、書くことで、記事を書いた人が傷つかないように、

     

    書いたことがその人の役に立つようにという意識で書く。

     

    自分の主張を相手を叩くために言うのではなく。

     

    例えば、匿名で言いっぱなし、無責任に批判をすることで自分のエゴを満たしてないか、

     

    もう一度考えてみて欲しい。

     

    自分の中にあるネガティブな感情をちゃんと見てみよう。

     

    そこに何があるか、掘り下げてみよう。

     

     

    言われた人(書かれた人)の気持ちを考え、力になれるようにする。

     

    それは自分へも返ってきて、自分自身がエンパワーメントされる。

     

    自分がかけて欲しい温かな言葉を、人にもかけてあげることが大事。

     

    それは伝染するのだ。

     

     

    今日もお読み頂き、ありがとうございました。

     

    Hare Krishna Hare Krishna

    Krishna Krishna Hare Hare

    Hare Rama Hare Rama

    Rama Rama Hare Hare

     

     

    一つの花より、色々な花が集まることで美しさを倍増させる。

    ラサ・マドゥリさん撮影

     

    日記 ヨガの道

    • 2020.11.27 Friday
    • 18:24

     

    ◯◯真理教が日本を揺るがす事件を起こしてから、

     

    ヨガ界にいる人達は肩身の狭い思いをしながらも、ヨガを伝え続けてくださった。

     

    だから私たちが今ヨガができる。

     

    ヨガやってる → 怪しい宗教?

     

    レッテル貼られて、悔しい思いをした先輩方がたくさんいらしたと思う。

     

     

    ヨガって宗教?

     

    バクティ・ヨガの教えをお伝えすると、必ず受ける質問。

     

    私は師、サドゥーマハラージの「宗教とは池のようなもの」というお言葉を使わせて

     

    頂いて、ヨガの教えは大きい河のようなもの、とお伝えしている。

     

    どこまでもとうとうと流れる川の水をすくって、いつでも誰でも飲むことができる。

     

    それがヨガだ。

     

    宗教は人間が作った人工の池。

     

    池の水は川を堰き止めてできている。

     

    池に入ると離れるのが難しい。

     

    でも川には仕切りがない。その恩恵を受けるために川の近くに住んで生きる人もいれば、

     

    離れて、また近づいてを繰り返す人もいる。

     

    その人の好み(生まれ持って与えられたサンスカーラという種のようなもの、

     

    カルマによって決まる)によって選ぶ道は変わってくる。

     

    ・・・・という概念。

     

    選ぶ道(例えば、普通に考えると悪いとされる道でも)は、実はその人が

     

    それを選ぶ運命になってしまっているということ。

     

    自分と違う道を選んだ人を軽蔑したり、笑ったり、自分は良かったと思うべきではない。

     

    自分もそうなっていた可能性があったかもしれないと思うべきだ。

     

    みんな同じ。

     

     

     

    運命を変える道は僅かながらある。

     

    何がサットヴァ(徳)な道なのか、気づくには

     

    マントラを唱えることと、自分に与えられている僅かな意思の力だ。

     

     

    勉強して頭でいくらわかった気になっても、リアライズは来ない。

     

    そして私は私が今リアライズしてる分しか、人には伝えられない。

     

    ただただ、マントラを唱えることで、それがやって来るということだけはわかるので、

     

    マントラを唱え続け、選ばなきゃいけない局面で、選ぶべき道を選ぶこと。

     

    本当はどっちに行ったらいいか感づいてるのに、自分の心のエゴの声を聞いてしまう。

     

    楽する道、人に迎合する道を選んでしまうのが人間で。

     

    (本当の楽と、逃げは違う)

     

    その時はそれで済んで、一瞬は楽しても、あとで必ずネガティブな感情が

     

    やってくる。

     

    逆に魂の声を聞いて、その通りに行動できるようになってくると、色んなことが幸せだと

     

    感じられるようになってくる。これ、本当にそうなのだ。

     

    だから、魂の声を聞けるようにすることがいいんだなあと思うこの頃。

     

    今日もお読み頂き、ありがとうございました。

     

    Hare Krishna Hare Krishna

    Krishna Krishna Hare Hare

    Hare Rama Hare Rama

    Rama Rama Hare Hare

     

    サドゥー・マハラージ師のバースデーに

     

     

     

    愛が全てを溶かす バクティヨーガ

    • 2020.11.22 Sunday
    • 22:54

    昨日はスタジオで「人生の7つの疑問に答える」ヨガ哲学入門講座を

     

    させて頂きました。

     

    ヨガ哲学、つまりインドのヴェーダの経典の中で、私たち人間は「無知の闇の中に

     

    生まれた」と書かれています。

     

    無知というと、とても強い言葉に聞こえますが、ここでいう無知とは

     

    魂の、つまり、スピリチュアルな知識がないことを言います。

     

    信じる信じないはあるかもしれませんが、信じられる人の方が心豊かに

     

    不安なく生きていけることは確かです。

     

    世界中の人の約半分は、魂の存在を信じているそうです。

     

    私の師匠は、「今日降水確率が50%です」という天気予報なら、折り畳みの傘を

     

    持っていけば濡れずに済むのだから、持っていく方がいいよね、というふうに

     

    表現されました。

     

    「自分が魂である」という知識が、どれだけ人を楽にするか想像できますか?

     

    私たちは、自分自身を、この肉体と心だと信じ切っています。

     

    一般的な人はそうだと思いますし、私自身もそうでした。

     

    自分という存在が肉体や心だと思って、一生懸命肉体と心の世話をします。

     

    肉体を美しく、または頑強に、健康にしようとし、心を満足させようとして

     

    勉強したり、習い事や資格取得、様々な遊びや旅行、美食などで感覚を

     

    ひととき満たすことに集中します。

     

    ですが、それももちろんやりながら、でも同時に、魂のことを知ることはとても

     

    大切で、必要なことだと思います。

     

    なぜなら、肉体は必ず失われますが、魂は永遠だからです。

     

    失われていくものを必要以上にケアしないで、存続していくものを磨きましょう

     

    ということです。

     

     

    ヴェーダの経典に魂の性質が書かれています。

     

    「サット チット アーナンダ」

     

    サッチーナンダというスピリチュアルネームの方がいたりしますが、そのことです。

     

    どういう意味かというと、「永遠で、知識に満ち、幸福である」ということです。

     

    ところが、自分を肉体(心)と思っていて、無知な状態だと、心にこびりついた

     

    汚れ、ゴミのようなものの影響によって、目が覚めるまで何度でも輪廻転生すると

     

    言われています。

     

    以前書きましたが、「生まれ変われるなんていいじゃない」と、私も前は思っていました。

     

    でも、また人間に生まれるとは限らないのです。

     

    行いによって、汚れ度合いによって、動物や虫に生まれることもあるし、人間に

     

    生まれたとしても、必ずしも恵まれた状態であるとは限らないわけです。

     

    今が幸せだとしても、生まれ変わったら、

     

    果てしない欲の海で終わることなく渇望感を感じたり、他人や他の生命から苦しみを与えられたり、

     

    天変地異、気候の変化などから来る苦しみ、例えば食糧がないなどもそれに含まれる

     

    かもしれませんが、肉体的な苦しみや病気、死への恐怖とも戦わなければなりません。

     

     

    では、もし魂の知識を信じて、肉体や心の汚れを取っていく行動をするとします。

     

    それがヨガの修行でもあるのですが、結果として望むも、望まざるも、人間は必ず良い方向へ

     

    向かっていきます。

     

    肉体も心も結果的にクリアーになっていくと言って良いと思います。

     

     

    ヨーガスートラという経典の初めには

     

    ヨーガハ  チッタ ブリッティ ニローダハ

     

    「ヨガは心の働き(作用)を制御することである」と書いてあります。

     

    なぜ心を制御しなければならないのかというと、自分が魂であることを知り、

     

    魂の源である根源の存在、バガヴァーンに仕えることが人生の最終目的という

     

    「実感」にたどり着くためです。心の汚れがあるとバガヴァーンには行き着けない

     

    のです。

     

    これは耳で聞き、このブログを読んだだけでは信じられないことですよね。

     

    当たり前です。自分の知らない、体験したことのないことだからです。

     

    ただ一つ言えることは、バクティ・ヨーガという愛のヨガだけが、これが

     

    本当に幸せな道だということを教えてくれます。

     

    これはやってみなければわからないのです。

     

    土砂降りの中で傘があることの幸せは、傘を持っている人しか

     

    わからないのと同じで、自分が肌で感じて初めて、「あ、本当だ」となる。

     

    知識を得たら、素直にやってみることだと思います。

     

    やってみると、どれほどの安心感に包まれるかということがわかると

     

    思います。この実感が信念を生んでくれるので、実感する、体感することが

     

    大事です。頭だけではダメ、本を読んで得た知識だけではわからないのです。

     

    やり方は9つあると言われていますが、とりあえずやるべき基本は3つ。

     

    聞いて、唱えて、思い出すことです。

     

     バガヴァーンの話を読む、または聞く。

     

     マハーマントラを唱える。

     

     バガヴァーンのことを思い出す。

     

    なぜこれを続けると幸せになるかというと、本当の愛を知っていくための

     

    練習だから。人間に最も必要なのは愛だからです。

     

    愛だけが人間のハートを溶かすことができる唯一の薬です。

     

    ここで言う愛とは、エロス(情欲、性的な愛)と区別されます。

     

    真の愛。神への愛。神聖な愛です。

     

    愛を学ぶこと。魂の満足を得ること。これがバクティ・ヨーガなのです。

     

    今日もお読み頂き、ありがとうございました🙏

     

    Hare Krishna Hare Krishna

    Krishna Krishna Hare Hare

    Hare Rama Hare Rama

    Rama Rama Hare Hare

     

    聖地ヴリンダーヴァンの寺院にいらっしゃるクリシュナとラーダー

    毎日沐浴し、お化粧をし直し、ドレスや装飾品できれいに飾られます

    良く見てると、本当に細やかで、心からの愛を持ってなければここまで

    できないと感じさせられます。

    私たちも、全ての行動を愛から行ってみましょう。

     

     

    人がどう、ではなくて自分です

    • 2020.10.30 Friday
    • 19:49

     

    私は、誰もがYogaをして欲しいと思います。

     

    最初はアーサナ(ポーズ)の練習から入る人が多いでしょう。

     

    最初からYogaという意味そのものに惹かれる人もいますけど、大体の人は

     

    自分の「肉体」というものに興味があり、それをケアしようとしてYogaを始めます。

     

    いつまでも若く、美しく、健康に暮らしたいと思うのが人間です。

     

    初めはYogaして肉体をケアして、ああ、なんだか柔らかくなった、リラックスできた、

     

    スッキリした・・・となってくる。

     

    リラックスすると、肉体だけではなく、ハートが柔らかくなるのですね。

     

    それはとても大事なことです。

     

    ハートが柔らかくなると、自分を縛ってるもの、人を縛ってる考え(こうあるべきという

     

    期待、欲望)に気づくことができるようになります。

     

    ハートの柔軟性が上がっていくと、自分の内側が見えるようになってくるんです。

     

    表情も変わります。

     

    クラスに来ている生徒さん達で、表情が変わっていく人を幾人も見てきました。

     

    そういう方達の特徴かも知れませんが、とても素直な人が多いなと思います。

     

    時々、私自身がそういう生徒さんを教えながら、泣けてくることもあります。

     

    言葉で書くのは難しいのですが、その人の「委ねている」感じに感動するから

     

    かもしれません。その時、私が教えているのでもなく、その生徒さんが習っている

     

    のでもないな・・・という、双方向から交歓しているような?何とも言えない

     

    震えるような感覚に見舞われます。

     

    その時、その生徒さんはどんどん純粋に近づいているのだと思います。

     

     

     

    インドのお寺に住む聖者は、どんな人でも受け入れてくれます。ジャッジしません。

     

    ハートが汚れてないからです。人を魂として、自分と同じに見るからです。

     

    でも、私たちは他人を批判します。

     

    批判は、妬みや欲望があり、自分が正しいと思っているのと、

     

    他人を魂としてリスペクトできてないことから生まれてくるのだと思います。

     

    私たちに、魂レベルでは何の違いもないのです。

     

    魂を覆っているものの汚れがなくなった時、謙虚さ、素直さが出てきます。

     

    そういう人が他人を批判することができるでしょうか?

     

    自分が正しく、人がバカだと言えますか?

     

     

     

    Yogaは知れば知るほど、スピリチュアルなものです。

     

    そして、人間が人間であるために、最も大切な「杖」だと思うのです。

     

    だから、私たちはアーサナを練習し、マントラを唱え、いつも純粋になろうと

     

    努めていくことが大切です。

     

    これは、バクティYogaという愛のYogaを学ぶ前の、下地を作っているとも

     

    言えます。

     

    愛を知るために、ハートを耕して、柔らかくしていきましょう。

     

    愛を持って人に物を言えるように。

     

     

    今日もお読み頂き、ありがとうございました。

     

    Hare Krishna Hare Krishna

    Krishna Krishna Hare Hare

    Hare Rama Hare Rama

    Rama Rama Hare Hare

     

     

    全ての生命(魂)自体に違いはない。

    それなのに私たちは、自分が正しく、人間が一番偉いと思ってる。

    そこに謙虚な心は微塵もないのが分かりますか?

     

     

     

     

    人の為にすることが、幸せにつながる

    • 2020.10.18 Sunday
    • 22:34

     

    先日スタジオで、Yoga哲学の基礎クラスをしました。

     

    これから毎月1回、少しずつでもお伝えできたらなと思っています。

     

    哲学って何のためにあるのか? 人間が幸せになっていくためには

     

    拠り所になる真理が必要です。

     

    何が正しいのか? 何を基準にして生きていけば良いのか?

     

    それが不明だと人間は不安になります。また、不安なところで

     

    何かに掴まろうとして、「この人の言うことなら大丈夫」と、信じて騙されて

     

    しまうこともありますし、リーダーシップのある人に頼ろうとします。

     

    絶対真理とは、時代や宗教や国や人種などが変わっても

     

    不変(普遍的)なものです。逆に言うと、時代、宗教、国、人種によって

     

    変わるものは絶対真理とは言えないのですよというお話をしました。

     

    科学や(書かれている)歴史は変わります。その証拠に私達が学んできた教科書は

     

    今と違っていたりしますよね。だから絶対真理とは言えないのです。

     

    絶対真理は不動で、この世と宇宙が生まれた時から変わらないものなのです。

     

    誰がどう言っても、何が起こっても。

     

    だからこの「絶対真理」を基準にしていくと間違いがないということ。

     

    絶対真理(Yoga哲学) を基準に動いていくと、全てが整ってくるということなのです。

     

     

    人間は魂的に、誰かに仕える(奉仕する)ために生まれてきました。

     

    これは絶対真理なのです。

     

    家族の為に奉仕するのが一番身近ですね。

     

    仕事だって、お金を稼ぐという目的もありますが、その為にした生産的な行為を

     

    社会の人のために捧げているわけです。

     

    そのラインが見えないと、それはただの自己満足になってしまいますね。

     

    昔は政治家は、それこそ、国民、人民のために私財を投げ打って、命をかけて

     

    働いていたそうです。

     

    第二次世界大戦後、米国から資本主義、成功主義、個人主義の悪い部分も入ってきた。

     

    人はみんな幸せになるべき(それはそうなんですが)という考えを

     

    利己的に解釈し、誰もが権利だけを主張し始めたのです。

     

    働くこと、義務を果たすことは大事だけど、そこそこにね。「みんな幸せで、みんな平等に」

     

    という考えが、エゴを育てました。

     

    みんな幸せになる為には、本当は全員が人(他己) の為にという意識で働くべきなのです。

     

     

    「自分が幸せにならなければ、人を助けることはできません」と、私は普段言ってます。

     

    これは、物質的に豊かになれということを言っているのではありません。

     

    まず自分で自分のことを大切にしてあげましょうねということなのです。

     

    なぜなら、私たちは神様や他の人間、生命にお仕えするという

     

    究極的な意義のために生まれて来たからです。

     

    あなたがいない世界は、「あなたのいない世界」ではなく、「あなたが欠けた世界」なんです。

     

    例えば、学校のクラスで、あなたが欠けていたら先生もクラスメイトも悲しみますよね。

     

    それと同じです。

     

    「でも、自分には何もできないし」と考えないでください。

     

    あなたがいて、笑って、愛を持った行動をするだけで世界は変わるのです。

     

     

    スタジオで、一人、クラスの後お掃除をしてくれる人がいると、みんなが一緒に

     

    「私も」と言ってお掃除を始めてくれます。

     

    私が生徒さんたちをお客さんと見れば、お客さんに掃除させるなんて、という考えに

     

    なるか、せっかくリラックスしに来てくれてるのに、申し訳ないという考えに

     

    なります。

     

    でも、生徒さん達が「自分が使った後、次の人が気持ち良いように」と、人のためを

     

    考えてくれるので、それが嬉しくて止めません。

     

     

    私は、ビートたけしさんが

     

    「俺はいつも駅のトイレとか使った後、キレイにしてから出る」と言っていたことから

     

    自分もいつもそうするようになりました。

     

    ビートたけしさんは「俺が汚したと思われるのが嫌だから」と、照れ隠しなのか

     

    言ってましたが、それでも良いのです。

     

    良いことは良いのですから。

     

    それが良いバイブレーションの広がりを生むんです。

     

    良いバイブレーションは愛の種になります。

     

    そうなのです。神様や人の為にしていくというのが、魂としての人間の性質だから、

     

    そうすることが、結局自分を満たしていくことになるんです。

     

    幸せって何だろう?と考えた時、色々な幸せの考え方があるかもしれませんが、

     

    これが究極的な、お金も物質も関係ない幸せで、今この瞬間からできることです。

     

    自分が今、人の為にできることを、小さなことでも

     

    やっていくことから始めてみましょう。

     

    今日も最後までお読み頂き、ありがとうございました。

     

    Hare Krishna Hare Krishna

    Krishna Krishna Hare Hare

    Hare Rama Hare Rama

    Rama Rama Hare Hare

     

    インドの聖地の寺院では、マハープラサーダム(神様に捧げた食べ物)を

    道ゆく人達に配ります。

    インドでは食事をする前に、「お腹の空いている人はいませんか?」と

    聞き、もしいたら、その人たちに先に食べさせます。

     

     

     

     

     

    本当に自分を大切にするために

    • 2020.09.30 Wednesday
    • 19:12

     

    私が、いわゆる体操のYogaと出会ったのは15年以上も前。

     

    初めての印象は、特になかったと思います。

     

    ストレッチ?みたいなものだなと思いました。

     

    スポーツクラブで受けたヨガだったから、プログラムとして

     

    どんな効果があるのかな?と思っていました。

     

    そのうち、「ヨガストレッチ」を自分自身が教えることになり、

     

    ヨガの先生から研修を受けました。

     

    呼吸を深くしているうちに、私自身が何かを感じるようになっていきました。

     

    受けてくださる生徒さん方は、私よりもずっと呼吸が上手く、

     

    みんな勝手に瞑想的になってるのを感じました。

     

    この時、ヨガは普通のエクササイズにはない何かがあるなと感じていたけど、

     

    それが何かわからないまま、私はまたヨガから離れていったのです。

     

    絶対ヨガを続けた方が良いとまでは、まだ思えなかったから。

     

    ただ、この時教えてくれたヨガの先生は、元々私と同じくエアロビクスの先生

     

    だったのが、ヨガに転向した先輩でした。

     

    この先輩の雰囲気が、ヨガに転向してから、あまりに変わったことはすごく不思議でした。

     

    単に、普段着がヨガっぽくなったり、持ち物もオリエンタルになった・・・という

     

    以上の、言葉にできない何か優しい雰囲気、全て許されるような癒しを感じる人に

     

    なっていたのです。

     

     

    スポーツクラブの社員として、毎日仕事に追われていた私は、生活全て「ざっくり」な

     

    人間だったと思います。不器用なので、そうしないと回らなかったのです。

     

    本当の意味で自分を大切にするということが、どういうことかわかっていなかったのです。

     

    自分の中の小さな感情に気づけなかったのです。

     

     

    どうして怒ってるのか、どうして嫌と感じるのか。

     

    嫌悪感がどこから来るのかを大切に見てあげないと、ただ「嫌だ嫌だ。離れよう」

     

    「無視しよう」「どうしてこんな目に遭うの?」で終わってしまいます。

     

     

    私たちのほとんどが、時と場合によって、必ずと言って良いほどネガティブな感情を

     

    持ちます。

     

    それは外側からやってくる要因(他の人や動物から来るもの、天変地異など)に対して

     

    反応しているからです。

     

    それらを私たち自身が変えることってできるでしょうか?

     

    できないですよね。ほとんど。

     

    私たちが苦しいと感じ、怒りや悲しみに支配されてる時、それは自分の内側で、

     

    自分自身が苦しさを作り出してしまっていることが多いのです。

     

    「こうあるべきではない」と自分の理想があるのに、その通りにならないから

     

    怒ったり、悲しかったり、不快な気持ちになるのではないでしょうか?

     

     

    本当に自分を大切にするって、この感情に蓋をすることではなくて、

     

    目を向けてあげることなんだなあと思います。

     

    小さな子供が心の中で、怒ったり泣いたりしているのを、無視しないで

     

    いたわって、「今、怒ってるんだね」「今、悲しいんだね」と言ってあげるのです。

     

    これが第一歩。

     

    「えーっ!それだけじゃ解決できない」と思うかもしれません。

     

    はい。そう思ったら、チャンスです。

     

    苦しみの原因となっている、「こうあるべき」が、心のどこから来ているかを

     

    掘り下げてあげてください。

     

    そして、マントラを唱えてYoga哲学、ヴェーダを学んでください。

     

    学ぶと、五感、心の働き、知性の働きを知ることができます。

     

    自分の中の小さな子供をケアできたら、もっと視野を広げることができます。

     

    ヴェーダとは、「知識、光」という意味です。

     

    苦しい感情は、月を覆う雲と同じです。

     

    ヴェーダを知らないのは、雲に覆われている闇の中を手探りで歩くようなものと

     

    言われます。

     

    私たちは、自分たちの心すらコントロールできずに、もがいています。

     

    見えないから、手探りし、不安になるしかない。当たり前ですね。

     

     

    雲が晴れたら、その後ろには必ず明るい月が輝いているのです。

     

    その月を見た時、全て「あ、これで良かったんだ」と思えるでしょう。

     

    Yogaの不思議さ、Yogaのスピリチュアリティに惹かれながらも

     

    私はあの時はまだ導かれなかったけれど、

     

    今はYogaを一人でも多くの人に知ってもらいたいなあと思っています。

     

    今日も長文をお読み頂いて、本当にありがとうございます。🙏

     

    Hare Krishna Hare Krishna

    Krishna Krishna Hare Hare

    Hare Rama Hare Rama

    Rama Rama Hare Hare

     

    聖地ヴリンダーヴァンを流れるヤムナ河

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    人生の中にYogaを思い出そう

    • 2020.09.24 Thursday
    • 10:45

     

    先日、生徒さんがすごくスッキリ清々しい雰囲気になっていたので

     

    どうしたのかと聞いてみました。

     

    すごく良いことがあったと言うので、聞いてみたら、家族の問題のことだったそうで、

     

    詳しくはわからないのだけれど、心の中のしこりが取れたと言っていました。

     

     

    人間は何に喜びを感じるか。

     

    この世には物質的なものから精神的なものまで色々な幸福があり、どれを幸福と

     

    感じるかは人それぞれと言ってしまえばそこまでなのですが、

     

    ではどうして人それぞれなのでしょう?

     

    それはその人が生まれ持って影響を受けたグナ(宇宙の質)、

     

    サンスカーラ(種のようなもの)、カルマ(行為と結果の法則、因果)、

     

    スクリティ(功徳)、そして星の影響にもよると言われます。

     

    ですが、どんな人にとっても、気づいていてもいなくても、最高の喜びは「愛」に

     

    関することなのは間違いないでしょう。

     

    大抵、人は愛されることに喜びを感じるものですが、実はもっともっと高い喜びは

     

    愛することから得られるのです。

     

    それは見返りを求めるものではなく、お母さんが子供を愛するように

     

    原因に依らない、とヨガの経典に書かれています。

     

    元々人間はそのように作られていて、究極的には私たちはスピリチュアルな愛と

     

    繋がるために存在していると。

     

    それなのに、私たちは自分の満足のために生きてしまいます。

     

    自分が何ものなのかを忘れてしまっているからです。

     

    なぜかと言うと、欲を持っているからです。

     

    欲と言うと餓鬼のような欲望を思い浮かべるかもしれませんが、

     

    自分の思う通りにしたいと思う事や、人の上に立ちたいとか、勉強したいとか、

     

    何かを得たいと思う事は全て欲の一種です。

     

    欲があるから、この世に生まれてきたのが私達なのですね。

     

    欲が無くならない限り、何回でも輪廻転生するのです。

     

    それも、次の生で人間に生まれるとは限らないと言われています。

     

    だから人間に生まれてきた今世で、ちゃんと本来の生き方(Yoga)を思い出さないと

     

    いけません。今がチャンスなのです。(´д` ;)

     

     

     

     

    例えば、お金を持っていると私たちは肉体を満足させようとします。

     

    美味しいものを食べ、旅行に行き、自分の感覚を満足させようとお金を使います。

     

    でも、その満足には限りがあります。

     

    飽きてくるのです。

     

    また、その肉体自体も劣化していきます。

     

    どんなに手をかけて老化を遅らせようとしても、最後に肉体は滅びていきます。

     

    歳を取った時、もう先があまりないという時、本当に持っていたいものは

     

    何なのでしょうか?

     

    これまで頑張って手に入れてきたものや、物質的なものだけあれば、満足して死ねますか?

     

    お金があれば、人は寄ってくるかもしれません。

     

    でもそこには愛がないでしょう。

     

    本当に持っていたいのは「愛のある関係」ではありませんか?

     

    大切にスピリチュアルな関係を育てていった人は、最後は愛の中で死ぬ事ができるでしょう。

     

    愛する人のために、家族でも、友人でも、自分ができる最大の事をしてあげたいと思えるか。

     

    思えない人は是非バクティ・ヨーガを学んでみて欲しいです。

     

    きっと何かを見つけられると思いますよ。

     

    今日も最後までお読み頂き、ありがとうございました。

     

    Hare Krishna Hare Krishna

    Krishna Krishna Hare Hare

    Hare Rama Hare Rama

    Rama Rama Hare Hare

     

     

     

     

    寺院の清掃

    • 2020.09.18 Friday
    • 17:59

     

    どうしてアサナの練習をするのでしょうか?

     

    それは、これまでも書いてきたけれど、「自分」を掃除するためです。

     

    今、クラスで私の師匠が読んでくださっている経典の中に、

     

    みんなで寺院のお掃除をするシーンが出てきます。

     

     たくさんゴミを見つけて出す人

     

     そこそこな人

     

    それを「ゴミ」「汚れ」と認識できないと、掃除ってできないのですよね。

     

    自分という寺院の中にいるクリシュナと、本当の自分(魂)の為に、できるだけ

     

    自分をキレイに保っておきたいのです。

     

     

    別の話になりますが、私の姉妹弟子が、インドでナチュロパシーという治療と浄化の

     

    セッションを定期的に受けていたら、信じられないほどスピリチュアルな感覚が

     

    開いて来たそうです。ビジョンがクリアーになるのがわかったそうです。

     

    今はコロナの影響で、インドに渡れず、また戻っちゃったわと笑っていましたが、

     

    その効果はすごいと言ってました。

     

    ナチュロパシーは、水や泥などを使って身体をデトックスし、内側からキレイにするものです。

     

    アーサナや、呼吸法、瞑想は、身体もそうですが、心をキレイにします。

     

    身体と心をキレイにしないと、次へ行けないのです。

     

    そして最も心をキレイにするには、マントラを唱えることと、経典の話を聞くことが

     

    良いのです。

     

    次って何?

     

    それは、慈悲を受け取れる自分になることです。

     

    慈悲を受け取るのは、努力ではどうにもならないそうです。ただ「降りてくる」のです。

     

    それは経典に書かれています。

     

    いえ。本当は、努力はできます。

     

    ただただ、自分をキレイに掃除しようとする努力です。

     

     

     

    この物質的な世で、私たちは必死に生きてます。

     

    外側に対処しなければいけないので、内側の掃除など忘れてしまいがちです。

     

    たくさんのスピリチュアルではない情報が、雨あられとやってくる。

     

    物質的な欲やエゴを掻き立てるような情報、付き合い。

     

    以前はその中にいて、汚れが溜まってきても気づきませんでした。

     

    ただ、何となく考え、思いが、ネガティブになることはわかりました。

     

    一度、「これか!」と本当の明るさがわかると、人はもう後戻りはしなくなります。

     

    本当の安心感と、本当の幸福感とはどんな感じかを体験でき、暗いところにいる

     

    不快さが心底わかるからです。

     

    戻ってしまうということは、本当にクリアーになった時の素晴らしさが

     

    まだ得られてないということかもしれません。

     

    だからこそ、忙しくても、スピリチュアルな感覚を開く努力を忘れないようにしたいですね。

     

    ネガティブになってる。人をチェックしたり、攻撃したくなってる。

     

    その時ほど、ぜひマントラを唱えてください。

     

    自分の寺院を清掃しましょう。

     

    今日も最後までお読み頂き、ありがとうございました。

     

    Hare Krishna Hare Krishna

    Krishna Krishna Hare Hare

    Hare Rama Hare Rama

    Rama Rama Hare Hare

     

    私たちはタタスタ・シャクティ(中間エネルギー)という存在で、

    物質界と精神界のどちらにも行ける。

    タタスタ=波打ち際 という意味だそうです。

    どちらに行くのがいいのか?ということです。

     

     

     

     

     

    人のせいじゃない

    • 2020.08.01 Saturday
    • 19:30

     

    英語の勉強のために、アサヒウィークリーを毎週読んでいます。

     

    アメリカ人のアニーさんという方が回答する「Dear Annie」という

     

    人生相談を良く読みます。

     

    多分質問者もアメリカの方だと思います。そして、

     

    この日本で発行されている新聞に合うようなものをピックアップしているのだと

     

    思うのですが、アメリカ人も日本人の私たちと同じようなお悩みを持つのだなあと

     

    よく思います。

     

    今週号の二つの相談が、どちらも大変興味深かったのですが、

     

    そのうちの一つをご紹介します。

     

     

    20年来の親友がいる相談者。

     

    お母さんが、つい最近亡くなったそうです。

     

    そこへ、その親友から電話がかかってきました。

     

    親友はお悔やみを言うどころか、数年前に亡くした彼女の母親の思い出話を

     

    延々と話し、悲しい気持ちを訴え、相談者の気持ちに寄り添ってもくれなかった、

     

    ただの一度も相談者のお母さんの話をしなかったそうです。

     

    その電話の間、相談者は彼女の話をただ聞く羽目になってしまったと。

     

    彼女の自己中な態度と、ほんの少しだけでも、自分の悲しみに気づいてもらうため、

     

    自分は彼女に何か言うべきでしょうか?

     

    ・・・・という相談内容でした。

     

    アニーさんの回答は

     

    精神科医の研究を引用したものでしたが、

     

    どんなに年数が経ってようと、私たちは自分の痛みを忘れることはできず、

     

    その人が、自分の悲しみに気づいてなくても、悲しみで心のダムの水がいっぱいで

     

    何かの拍子にあふれ出てきてしまうのだ・・・といったような事でした。

     

    アニーさんは、相談者にお悔やみを言い、友達のそんな態度に付き合う羽目に

     

    なって大変だったねと寄り添う言葉を書いていましたが、

     

    逆に友達の事情にも言及していたわけです。

     

    アニーさんは相談者に、ひとまずその友達と距離を置けとアドバイスしていました。

     

    今は自分の悲しみを最優先にケアするべきだと。だから彼女に何も言う必要はないと。

     

     

    この、距離を置くという方法は、自分を俯瞰するのに役立ちます。

     

    肉親を失くすことは、本当に辛いものです。

     

    だからこそ近い人、親しい人に慰めてもらいたいし、支えてもらえたらどんなに

     

    ありがたいかと思います。

     

    その期待があるのに、友達が寄り添ってくれないどころか、自分のお母さんの話に

     

    転化してしまった・・・・がっかりするし、怒りすら湧いてくるかもしれない状況ですね。

     

    ヨガ的に言うと、この友達も、相談者も、目が見えない状態になっているのです。

     

    心が悲しみに満たされていると、正しい判断はできません。

     

    友達は解決できてない悲しみのダムを崩壊させ、「自分の悲しみを、お母さんを

     

    失ったばかりの人に、相手の状況も考えずにとうとうと話し続ける」

     

    相談者は「自分は悲しいのだから、そんな話に付き合う余裕はない(自然なことです)と

     

    考え、友達は自分をどうして慰めてくれようとしないのかと思ってさらに悲しくなる」

     

    ・・・という、お互いが余裕のない者同士になってしまっているわけです。

     

    これ、どっちのせいとか、態度を改めるべきという話でもないと思うのです。

     

    人がそういう風に、自分の期待通りにならない状態の時、その人のせいにするのが

     

    私たちの傾向です。

     

    でも、もしかすると、原因は相手にあるのではなく、そうなってしまうのも

     

    仕方ない状況の中から生まれてるのかもしれない、と考えると、優しい気持ちに

     

    なれるのでは?と思うのです。

     

    私たちは誰一人、もともと汚れているわけではないんです。

     

    でも自分の本質を知らないから、魂のレベルでは持っているはずの純粋性、敬虔さを

     

    忘れてしまいます。

     

    そして、グナというこの世を形作っている宇宙の質や、惑星の影響、前世や今世での

     

    行い(因果)の結果を受けてしまうとヨーガの経典には書かれています。

     

    「この人のせいじゃないんだ」と思うことは、人を許すことにつながるし、

     

    自分を許すことにもなるのだと思うのですよ。

     

    今日も最後までお読み頂いて、ありがとうございました🙏

     

    Hare Krishna Hare Krishna

    Krishna Krishna Hare Hare

    Hare Rama Hare Rama

    Rama Rama Hare Hare

     

    聖地の寺院に遊びに来たインコたち

     

     

     

     

     

     

     

     

    本当の付き合い方

    • 2020.07.21 Tuesday
    • 17:39

     

    なかったら生きていけない

     

    なくしたら生きていけない

     

    というものを、私たちは沢山持っています。

     

    いえ。その前に、その大切で必要なものが、なくなるかもしれないことを考えた

     

    こともなければ、そうなった時どうするかと考えもしないかもしれません。

     

     

     

    この私たちに必要(と思い込んでいる可能性がある)ものには二つの種類があって、

     

    「自分が執着しているもの」と、

     

    「執着していようと、してまいと、人が生きていくのに必要なもの」

     

    があります。

     

     

     

    当たり前のようにある(いる)必要なものについて、私たちは感謝を忘れがちです。

     

    それについては、また次回書こうと思います。

     

    今日は執着って何だろう?ということを、書いていこうと思います。

     

     

    この物質界で、私たちは何かを好きになります。

     

    人や物、先回書いたのですが、趣味などもそうです。

     

    「好き」の先には執着があります。

     

    好きという感情が強過ぎると、スティッキー(粘度が高い)な状態になっていきます。

     

    それが執着です。

     

    面白いのが、「嫌い」という感情も、執着を生みます。

     

    嫌い嫌いと思い続けているということは、「嫌い」なことを強く思っているということなのですね。

     

    心は好きも嫌いも関係なく、「思っている」分だけエネルギーを生み出すんです。

     

    このエネルギーに私たちは囚われてしまいます。

     

    自分では気づかないうちに、不自由になっているということです。

     

    「あれは好き」「これは嫌い」

     

    誰しもそういう感情は持っていますが、それが強すぎると、

     

    「あれがないと生きていけない」「あれが側にあるだけで、耐えられない」

     

    という考えに縛られてしまいます。

     

    好きになるのも、嫌いになるのも、人間にとって自然なことです。

     

    自分にとってめちゃめちゃ大切なものというものは、大事にして良いのです。

     

    でも、私たちがこの世界で大切にしているものとは、いつか必ず別れなければ

     

    ならない時が、100%来ます。

     

    そう考えると、大事にしていくということの意味が変わっていくような気がしませんか?

     

    大切に思いながらも、執着しない。

     

    言い換えると、いつ別れても、無くなっても良いように心の準備をしておくと

     

    言うことでしょうか。

     

    身の回りにくるものを永遠にあるように思い、それが自分のものと思っていると、

     

    失った時、きっと人生が終わったように感じてしまうことでしょう。

     

    後悔のないように好きなもの、必要なものと向き合い、でもいつでも手放せる状態でいる。

     

    私は、それこそが、本当の人やものとの関係なのではないかと思うのです。

     

    不思議なのですが、逆にいつでも手放せる状態でいると、愛情が深くなったり、

     

    本当の付き合い方が見えてくる。そこから何かを得ようとする欲がなくなります。

     

    執着というバリヤーのようなものがなくなり、自分本位の見方から、解放されるから

     

    なのだと思います。

     

    物も人も、すべて神様からアレンジされて自分の側に来ていると考えると、

     

    何もかもに感謝できるようになり、もっとリスペクトを持った愛情に変わっていくと

     

    思います。

     

    今日もお読みいただき、ありがとうございました🙏

     

    Hare Krishna Hare Krishna

    Krishna Krishna Hare Hare

    Hare Rama Hare Rama

    Rama Rama Hare Hare